My life! after diagnosed with BC

ACPについてぼんやり思うこと

ポスター騒動で知名度が上がったACP(アドバンス・ケア・プランニング)。

厚生労働省が愛称(ってなに?もっと言い方はないの??)を「人生会議」とし、さらに「いいみとり」の語呂から11月30日をACPについて考える「人生会議の日」に決定したのだそう。

自らが望む人生の最終段階における医療・ケア|厚生労働省

‥そもそも全然語呂あってないけど。

ACPとは:
厚労省の説明では、ACPとは「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」

命の危険が迫った状態の約70%はどのような医療やケアを受けたいかを決めることも、その希望を伝えることも難しくなる。
なので、予め自分が望む人生の最終段階について考え、家族や医療関係者等と共有する一連を「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」と呼ぶのだそう。

簡単に思いつくことだと、在宅か病院でとか。
目いっぱい延命処置するのか延命拒否するのか、意識が戻らない延命は不要だけど、もとに戻れる可能性が高い処置は受けたい、でもその線引きはなんなのだろうとか。

病気が判ったころは、この病気で終末期を迎えるということも考えた。
一人っ子で両親しかいない今の状況では、在宅で‥という選択肢は考えられず、緩和ケアでできるだけ苦痛がないのがいいなーという事くらいしか思いつかない。できれば今かかっている病院の緩和ケアのベッドに空きがあるといいのだけど。

その場合、おそらくもっと早い段階で考えなければならないのは、治療をどこまで続けるのか。これっていざ自分がその立場にならないと分からないだろうな、と思う。

その治療や処置は程度の効果を見込めるのか、QOLはどの程度下がるのか。

実際に病気になっても、それでもその時にならないと判らないだろうし、気持ちは変わることもあるだろうと思う。
効果に見合う副作用なのかどうか、少しの可能性にも賭けたいと思うか、違う事に時間を使いたいと思うのか‥。

その時に、無理をしたいと思える何かはあるのだろうか。
どうしても離れたくない人や守りたいものなんて私にあるのだろうか。
心が弱っているのか、何もないのではないかという気がしてしまう。

両親が反対なので今はそちら優先(残った人の心の安泰の方が大事だと思っている)だけど、将来的には臓器ドナーになろうかな、と思っていた。でも、それも出来なくなってしまったのかも‥。

 

がんや全身性の感染症などで亡 くなられた際は提供できない場合があります。臓器提供時に医学的に判断します

臓器移植Q&A

提供時に判断するので意思表示だけはしておいてね、ということだった。

ぼんやり思うだけではなく、文字したり周りと話し合っておかないとないとだめらしい。
事故とか別の病気とか、可能性はいくらでもあるので、もうちょっと具体的に考えてみようと思う。
 

思いかけず仕事先の近くにたくさん種類があったはちみつ。
アーユルヴェーダはちみつはヨガの先生のところで、それ以外はここで買おう。

 

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ちょっとだけ結晶化しかけの2018年の蜜もあって、安くなっていたので試しに買ってみた。ちょっとテクスチャーが変わって、じゃりじゃりするほどではないけれど食べごたえがあってこれもおいしい!