My life! after diagnosed with BC

キャンサーギフト‥。

がんになったからこそわかること、気づけること。時間や命の大切さ、家族や友人周囲からの暖かいサポートなどをキャンサーギフトと呼ぶそう。「がんになったことによって得られたものもたくさんあった」と感じることを指すそう。さらには、「がんになって幸せ。今を生きる喜びを噛みしめることができる」となるそう。

なんだかなあ、という気分。病気になったからいいことなんてない。病気になったから幸せなことなんてない。私はそこまで達観できない。

そもそもこの言葉、患者が言っていてもピンとこないのに、さらにそう言っている患者のことを前向きだとか勇気があると言われているのは一層気分が悪い。もちろん、患者じゃない人がキャンサーギフト云々と言うのなんて論外。一体何がわかるというのだろう。

確かに気づかなかったこともあるし周りや色々なことに感謝の気持ちはある。でも、それらは病気にならなければ本当に気づくことができないことなのだろうか。病気になったから気づくことができたのだろうか。

生きていること自体がありがたいと気づいたと言われても、死を意識することなく生きている方がよっぽど幸せだと(私は)思う。疎遠だった家族と繋がったと言われても、そのままにしていたということはそれはそれで問題がなかったからだろうし、本当にやりたいことが見つかったというのも、やりたいことをやろうと思うようになったというのも、今までやっていなかったのは本当にやりたいこと思っていなかったか、思っていても行動しない自分に対してお金や時間やその他を言い訳にしているから。
改善したいことがあるのであれば病気を言い訳にしなくても改善できるはず。踏み出せなかったことに踏み出せたのは病気のおかげ、という考え方には違和感がある。

誰でも病気になる可能性もあるし事故にあう可能性もあるんだから‥という人もいるが、10年後の自分の生存率を計算して、病気じゃない人よりも生きている確率が下がっていても本当にそう思えるのだろうか。そもそもそんなことを考えないもしくは考えても現実味がないからそういう言葉が出るのだとは思う。たとえば自然死する人が5人、今の病気で命を落とす人が5人であれば倍の確率で10年後がないのかもしれない。そういうことを考えたことがあるのだろうか。病気になるってそういうこと。

もし私が病気をギフトだと呼ぶのだとすれば「ギフトとでもよばなければやってられないから」のような気がする。これって私のココロが狭いからなのだろうか。まだまだ感謝の気持ちが足りてないなくて傲慢なのか。私が後ろ向きだからとか、多様性を受け入れられていないからというようなネガティブな理由故なのだろうか。
でも、私はいいことも幸せなことも自分で気づいてつかみたい。病気のおかげで、ではなく自分で選びたい。

 

‥偶然「キャンサーギフト」という単語を目にしたのをきっかけに、ずいぶん感情的な文章を書いた。なんだかここ数日、少し気が立っているような気がする。急に疎外感を感じたり、僻みっぽくなってしまったり。
一昨日は日曜日に跳んだり跳ねたりして疲れたところにジムに行ってぐったり疲れていたのに、AM1時過ぎに目が覚めてからほとんど眠れなかった。昨日もAM2:00に目が覚めてからは時々うつらうつらするだけで熟睡できなかった。

どうしたんだろう、私。
1.5年検診が近いからナーバスになっているだけだと思いたい。

1年検査をインプラント入替OPで未だ痛いから、とUSだけに代えてもらっている。なので、マンモは約2年ぶり(!!)で、病気が見つかった時以来。その時の記憶がチラついて、トラウマ的に気が重い。もちろん、半年ぶりのLEUも憂鬱だけど。

だから気が立っているだけだと思いたい。

 

 

鬱々としてココロが荒んでいる感じがするので最寄りのコンビニアイスで幸せ補給。
パッケージの色使いがかわいい♡

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今年はチョコミントが豊富でうれしい。